合気道とは

合気道とは」

 

合気道とは何なのかを、自分の言葉で書こうとすればするほど分からなくなる。

それはまだ私が公に向けて「合気道とはこうです」と、強く断定して言えるまで分かっているとは思えない、稽古をすればするほど、まだ到底、気づいていない気づけていないことが遥かに多いと感じるのが現実だからでしょう。

 

え?そんな人が稽古会を主宰してもよいの?と読者や入門を考えている方に不安を与えるつもりはないのです。

 

現時点で合気道に必要な「基礎」は伝えていけます。ただ、私自身、まだまだこれからの段階であることは自他共に認めるところであります。自分の伸び代は無制限無尽蔵にある、しかも、何年やっても、合気道は、やればやるほど、身体や心の遣い方、奥深い深遠なる淵を覗かせてくれます。毎回、稽古の瞬間瞬 間でそれを感じさせてくれる、これで出来た、これでゴールといっていいことは永遠に来ないであろう、それが私にとっての合気道です。

 

「学ぶ」ことに関して言えば、「自分はそれが出来ている、自分はそのことを充分に分かっている」と無邪気に断定し登録てしまうところが最も危ない、よくない「居着き」=武道がもっとも嫌う状態が生じ、そこから学ぶことが止まる、学び損ねてしまう陥穽におちいるものだと思います。

 

そういう意味で、稽古の現場は、常に基礎を尊び学び、基本の型の習得・修練と共に、仮定の上での新しい試み、実験や、前言撤回もありのプロセス、まさに「常に変化する」なまものを扱うような、流動的で変化に富んだ、生成的な場であります。

 

自分の今日までの合気道の道のりを振り返って正直に書いてみます。

合気道に入門したのは、合気道のなんたるかを本で読んだり見聞きしたりしてかなり調べこんで入門したわけではなく、入門を決めた当初は、武道にさしたる興味を持っていたわけでもありませんでした。(そんなユルイところからスタートしています。つまり、自分の足で道場に来れるのであれば、誰にでもできるものなのです!)

 

内田先生が現役で神戸女学院大学で教鞭をとっておられるときに(今は退官されて同大学の名誉教授です)、私は大学院の内田ゼミに社会人聴講生として 参加させて頂いておりました。毎回、大変有意義な演習で、学生さん達、社会人の方々、優秀な方々の発表によってゼミは成り立っておりました。

受講者の発表後、仏文学や現代思想を専門とする内田先生のコメントとそこから展開されるご講義で、ある時はメタファーとして、幾度となく出てくる 「合気道」のお話を伺う度に、なんだかわからない、前知識も何もないけれど、先生がそれほど熱く語られる合気道とは一体どんなものなのか、まず体験してみ ようと門戸を叩いた、最初はそんなゆるやかな興味とモチベーションではじめたのでした。

 

入門当初は右も左もワケがわからず、人と組み、やったことのない動作の連続、頭も身体もついてゆかない、うまくゆかなくて、とにかく毎回混乱し、落ち込んだり、凹んだりしました。

 

それでも「なにがなんだかわからないけど、やってみよう、続けてみよう!」と合気道の魅力に取り憑かれていきました。

入門当初は3人の男の子の子育て真っ最中(当時、小学生2人と中学生1人でした。今は高校生2、大学生1です^^)、週末は末っ子が入団している少 年野球お世話役などと重なり、稽古に参加出来ないブランク期間も長く、稽古の積み重ね感が薄いまま、道場と切れそうで切れない危うい期間を経て、たまにし か参加出来ない私に、内田先生のご指導をはじめ、同門の先輩方や多くの仲間のみなさんに助けられなんとか継続、気づけば入門して7年が経っていました。

もちろん家族の理解もあって続けられたことで、遠くに近くにご縁を頂く全ての皆様のお陰様をいただいて、ここまで来れたことを心から深く感謝しております。

 

では本題に戻ります。

 

合気道をはじめるに際して最もきっかけとなった内田先生のお言葉は、

 

合気道をやるとコミュニケーション能力が高くなる

 

合気道をするということは、宇宙の法則を自分の心身にインストールすることだ

 

このふたつの尽きたと思います。

 

私は、その頃(今もですが)整体ヨガ教室を地元で主宰し、たぶん現時点で振り返っても、もっとも在籍者が多く、そして3人の子育ての渦中であった忙しい時代でした。

 

一週間に7〜9コマのクラスや他に単発講座を行い、在籍者は150名近くいました(生徒数はリーマン・ショックを境に、そしてフェルデンクライス・メソッドとの出会い以降、レッスン・プログラムを斬新に変化させ、そのプロセスで徐々に半減しましたが)。

 

ヨガのよいところは、マイペースで自分のカラダの声を聴きながら取り組めることです。常に自分の心身を観察していくので「内観」する力が強くなると思います。

 

ヨガマット一枚あれば、相手がいなくてもできる、ある意味「自己完結」した世界です。それがいい、わるいというのではなく、もちろんヨガはヨガですばらしいし、合気道の準備体操の中でも、ヨガの呼吸法やアーサナ(ヨガの対位法)がごく自然に取り入れられているほどヨガはすばらしいものだといえます。

 

けれど合気道がそれらとはあきらかに違うのは、合気道は相手があってこそ成立する世界、武道、稽古、これが私には非常に新鮮な世界観と修業をもたらしたのでした。

 

ヨガは内観する力を高め、アーサナや精神的修養によって、生きる力を高めていきますが、「ヨガを一人で行っていれば」、別の言い方をすれば「自意識」や「我」も逆に強くなる傾向も出てくるかもしれません。

 

(もちろん自分の修業状態を常に観ておられる、ヨガの精神的なところをきちんと教える指導者に師事していればそれは全く避けられます)。

 

けれど現代におけるヨガは多くはスポーツクラブや地域の教室で限られた時間内レッスンでの身体調整にとどまざるえません。

 

合気道の稽古の現場は、常に相手があって成立する世界なので、我が強ければ強いほど、それは「自分の弱さ」「弱点」「欠点」となってダイレクトに跳ね返ってくるような面白さがあります。

 

もちろんそれゆえに厳しい世界だと思います。

 

入門して合気道が好きで好きでたまらない、と、ストレートにスムーズにめきめき上達されていく方々をたくさんみてきましたが、自分などはおおよそその真逆をゆくタイプでした。

 

合気道の稽古に行くたびに落ち込んだのは、まず、私の場合、見たくない自分をしっかり見つめなくてはならない所から始まったからです。

 

他の同門の方々がスムーズに先生の見本演武を見て動かれる中、自分だけがすぐに手順を理解出来ないと、焦り、そのくせ、自意識とプライドだけは高 く、早く習得したいとはやる気持ちが焦りに繋がる悪循環、今振り返ってみると、私は自分に対してせっかちに何かを求めていたのではないかということです。

 

かなしい言い方をすると常に自分を否定し、自分ではない何かになろうとしていたといいますか...。

 

それともうひとつ言えることは、普段は教室業をやってますから、ふだんの生活は、仕事の現場では周囲の方々に「先生」と呼ばれ、 家では「3人の母」(こわいかあちゃん)であり、「奥さん」(恐妻!?)であります。まぁ内でも外でも、どこへ行っても「かかあ殿下」みたいな状況でした ので、へし折られるべき「鼻」を持っていたかもしれません。

 

とにかく入門当初は、見たくない、居るとは思いたくなかったヘタレな自分像というものにまざまざと「相手と組むことを通して」出会わされました。

 

試合をしない、勝敗をつけない、優劣を競わない、武道の中でも異色の存在、それが合気道。この独特の世界の中で、決して好み望んだ自分像ではない、もっというと、こんなはずではなかった、予期せぬ、歓迎し難い自分との出会いが、合気道入門によって果たされたのでした。

 

相手と組むことを通して、自分を客観的に知る(なかなか辛い)作業だったと思います。

 

入門当初を振り返って、楽しいというよりむしろ辛かったことの方が多かったかもしれない?のに、なぜ続いたのか、ここが味噌です。

 

しかも、この飽きやすく冷めやすい武道未経験者の私が、齢(よわい)四十を過ぎての手習い、いきなりパワフルな若い男女の方々の中に入って合気道修 業は想像以上にハードルが高すぎました。武道にはつきものの怪我もしましたし。それでも熱しやすく冷めやすい飽きっぽい私がヨガの他にも珍しく長続きした のが「合気道」、やはり、これは合気道の「何か」が私を捉えて離さなかったからだと思います。

 

合気道の稽古を通して御指導中の先生の珠玉の言葉が心身の動きを通して心と脳に刻印されてゆきます。

 

思いつくまま書いてみましょう。

 

「自分が場の主宰者になること」

「自分が今、此所にいることは前から決まっていたと、全て肯定し、強く断定する。」

「稽古は “透明な心” で取り組むこと」

「相手を嫌っていけない、相手を痛めつけるのではない」

「相手と正中線を合わせる」

「間のとり方、間合い」

「最適動線を探す」

「道場は稽古の場、道場の外が本番。

合気道の稽古で学んだことを活かすのは、人生という本番である」

「ヒンジ運動をしない」

「重心移動、骨盤から体幹、そして腕、指先へ、力を伝えてゆく」

「筋肉を固めて使わない、強い収縮の筋力をもって行うのではない、合気道の稽古をすればするほど、(余分な)筋肉が落ちてきたら本物」

「余分な力を抜くということは、脱力、腑抜けになることではない」

「相手と同化する=合気する、同期する」

「相手と同化して技をかける」

(※ 相手 “を” 同化して技をかける、かな...?と現在、模索中です)

「身体を細かく割る」

「呼吸力で技をかける」

「序・破・急」

「“破→急”で瞑想の境地に入る」

「足踏み  目付  胴造り  足捌き  手捌き」

 

上記の言葉は身体操作の指導でありながら、結局は人としての生き方を合気道という稽古の現場で学ばせて頂いていると思います。実際、内田先生もご自身のブログでこのように記されています。

失敗の効用 (内田樹の研究室)

「習い事のすばらしいところは、稽古で失敗しても、それで職を失ったり、会社に迷惑をかけたり、人生に大きな禍根を与えないことである。つまり伸び やかに 安全に失敗をし学ぶことが出来る場であり、そこでの経験を自分の人生や本業に活かすことが出来る、それが習い事・稽古事のすばらしいところである。」ワタ シの意訳ですが、そのようなことがもっと簡潔にすっきりと書かれています。

是非、お読み下さい。

 

合気道は楽しいです。

休まず間をあけず続ければ続けるほど楽しくなってきます。

 

人と組むという身体感覚を通して、しかも「勝敗を競わず」に、相手の身体から送られてくる微細な情報をキャッチして修業する、その精妙なプロセスは、ある種の「学びと救い」、本人が予想だにしなかった「大きな気づき」をもたらすと言って過言ではありません。

 

私はこの合気道修業中に、人生の中で大変辛い出来事を体験しました。自他共に破壊しかねない、心身がとても危険な水域に入っていったことがあります。その頃、私的な事情で稽古にもなかなか通えず、「生きる力」も落ちてましたので、ほんとうに辞めることまで考えました。

 

そのとき、内田先生が一言「とにかく、まず一度、お稽古に顔を出しなさい。一度投げられると、ふっと何かが切り替わりますから」とメールをくださったことを覚えています。

 

師匠から頂いた言葉です、即、素直に従いました。

とにかく何も考えずにまずお稽古に参加してみよう、それから決めよう、と。

長らく離れていたので、自分の中で敷居が高くなってましたが、かなりひさしぶりに稽古に参加させていただきました。

 

それからです、危険な状況から、生きる力と知恵が徐々に回復していったのは...。

もちろん時間はかかりましたが...。

やはり家族と友人、そして生業である仕事、もうひとつの家族といえる自分の整体ヨガ教室に通う方々の熱心さ、そして、合気道の師匠とその同門の方たちとの合気道修業を通して救われたといって過言はないです。

 

つい自分の話になり申し訳ないです。

合気道をはじめてみませんか?

最初は難しく考えず、汗をたっぷりかきたいから、痩せたいから、袴姿になってみたいから、ケンカに強くなりたいから、護身術を身につけたいから、仲間が欲しい、動機はなんでも構いません。

 

けれど一度フタを開けたら、あなたが予想しなかった面白い世界が待っています。

 

そうそう、もうひとつ、師匠の印象深い言葉を記して締めましょう。

 

合気道には、入り口はあっても、出口はない。」

 

ビバ!合気道!合気Do!

 

いっしょに合気道をはじめてみませんか!?

 

あなたの入門をお待ちしております!

 

合気道開祖の植芝盛平大先生のこと、合気道の成り立ち、そして私が所属する多田塾の文脈を知って頂くためにも、私の師匠の書かれた「合気道とは」を是非お読みください。

 

1.合気道とは - 多田塾甲南合気会サイト