器に合わせすぎては、学びは起動しないのです。

内田先生の記事、リンクさせて頂きます。

 

内田樹「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」 神戸女学院大学教授 内田樹 | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]

 

「先生がこんなにすばらしいものを贈ってくれたのに、自分はそれを受け止めるためにこんなに貧しい器しか持っていないという疚(やま)しさ、気後れ、それが人間を成長に導くのだと思います。」(本文より一部抜粋)
 
ほんとうに今の段階の自分レベルの話ですが、続けていれば続けているだけ、そのことに深く気づかされるものです。
 
また、インタビュアーの質問

「師匠」「メンター」に出会えるかどうかが、非常に大切な気がします。メンターとの出会いは、運任せ、巡り合わせ次第なんでしょうか。

 

に対して、

 

内田 いや、それは「運」ではなく、「センサー」が自分に備わっているかどうかだと思いますね。僕が自由が丘道 場に入ったのは1975年。それから約35年が経って、僕の後にはもう1000人以上の入会者がいると思うけれど、そのうち5年以上稽古を続けている人と なると、たぶん30人ぐらいしかいない。多田先生のような世界的なレベルの武道家に、直接教えてもらえる場所でも、ほとんどの人はすぐにやめてしまう。黒 帯取るまでやって止めてしまう人もいる。つまり、多田先生のような達人の教えを直接受けても、ほとんどの弟子は自分が教わっていることの例外的な価値に気 がつかなかった。そういう人たちを「運が悪くて、メンターと出会えなかった人」というわけにはゆかないでしょう。どんな幸運でもそれが自分のかたわらを通 り過ぎたときに気づかなければどうにもならない。

 

上記の先生のお応えには非常に響くものがあります。



自分が何を授かっているのか

どういうものを贈与されているのか

 

その贈与のされ方は常に心地よいわかりやすいものとは限らない

いやむしろ、???という謎だらけであったり

時には不安に陥る感覚もある

今ままでにない経験、体験、師からのレスポンス

 

 

今は授かっているものの何たるかの全貌はわからないのだけれど

「この先に自分の知らない何かがある」と予見できる能力こそ

センサーなのではないかな、と私は思います。

 

センサーは持って生まれたものというよりは、自分で養って行くものであるし、

「学ぶ意欲」「学ぶ意志」そのものではないかと私は思います。