【風立ちぬの感想2】 ※註 ネタバレあり
【風立ちぬの感想2】(ネタバレ要注意)
映画を未見の方は先入観を持たれるとよくないので、どうぞ後でお
別にそんなに気合いいれて映画見てねーよ、という方は、どうぞ(
「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいいか」
映画の最後で二郎に問いかけられるシーンです。
なんというセリフ
なんという分かりやすすぎるメタファー
(そういう意味では子どもにたいそう配慮して作り込まれている!
あえて
「美しい零戦がある世界と、ない世界、どちらがいいか」
(こちらの方が残酷で、なおかつ戦争肯定という誤解を与えやすい
でもなく
「美しい飛行機がある世界と、ない世界、どちらがいいか」
でもない
「ピラミッドのある世界と、ない世界、どちらがいか」
ですよ。
強烈に大人向け?
いいえ、強烈に子どもの成長、人の成熟、人類の進化を促す映画で
二郎は答える。
「ある世界」と。
これが宮崎からの最後のメッセージだと思うとほんとうに強烈なま
宮崎本音映画です。
宮崎は今までは子どもやおとなに自分の才能を(サービスして)捧
この映画で宮崎は、はじめて自分の才能を自分のために使った と
だから宮崎が正直になった最後の映画なんです。(たぶん?)
ピラミッドはまさにピラミッドです。
そして=ピラミッド社会、階層社会のことも指しています。
なぜならピラミッドは階層社会がないと造れないものだからです。
あの映画の文脈でピラミッドの存在を肯定することは、
そのままピラミッド社会、上意下達、階級、階層、格差の肯定です
実際、二郎の生い立ちも、妻の生育環境も、そして結婚した居候先
あの時代の庶民の生活とはかけ離れた非常に恵まれた上流社会です
宮崎はアニメ制作に自分の人生を捧げてきました。
自分の妻子を養うために自分の妻子を後回しにしてきました。(た
おそらく宮崎は自分の子どもの小学時代の担任や中学時代の担任の
二郎の親友もまた自分の才能を活かすべく、
身を固めるために結婚することの「矛盾」を告白します。
これが宮崎の本音なのです。
才能のあるものは、誰かを踏みに付けにしても、台頭して、その才
宮崎はこの映画を通して家族に贖罪を乞い、
そしてまたそのように才能に忠実に生きてきた自分に許しを与えた
私は「風立ちぬ」の映画を通してそのように感じ取れました。
ひとつめの感想で私が「この映画は宮崎の贖罪である」と表現した
【風立ちぬの感想1】内容のネタバレは一切なし、ご安心を
【風立ちぬの感想】内容のネタバレは一切なしです、ご安心を。。
ジブリの「風立ちぬ」の感想をあちこちでちらほら見かけるこの頃
まず映画公開前にNHKの番組の一部で特集が組まれたときに
インタビュアーが宮崎氏に対して「これは遺作ですか?」と聞くの
なんて失礼な質問をするんだろうと、少し憤慨してました。
確かにだんだん高齢になられて作品作りは大変だと思うけれど、
ご自分が先に「これを最後にしたいと思います」と言われる前に
「これは遺作ですか?」って先に聞くのってどうよ、と。
けれど、映画を見始めると、やはり「これが最後の作品」という宮
たぶん、はじめて自分に正直に作品を作られたのだろうなぁと。
観て思ったのは「宮崎の覚悟と贖罪とバトン」これにつきます。
「覚悟」というのは自分がこの世からいなくなる覚悟、
(いつか、誰でも、そうだけど、宮崎にとっての)
興行的にはもう日本国民のある一定数は確実に宮崎が映画を作れば
「贖罪」は、うまくいえないけど、
今までは会社経営だから、たくさんの人を雇い人生を抱えているの
けれど、もう僕は客に媚びない、僕はもうたぶん作らない、体力的
そういうものを感じました。
私にとってこの映画は、物語が、映画の作りがどうの、そういうこ
もう少し他の視点でいうと、
「風立ちぬ」はまずこれは大人が対象のアニメなのか、子どもが対
これ、子どもはついてこれるのかな〜...。と
でも実際にFBで流れてくる感想やうちの三男の周辺の子たちの感
実に「若い人たち」(あるいは宮崎アニメに対して感性の居着きが
私自身は宮崎アニメで一番すきなものは?と聞かれたら、「千と千
三男の周辺(高専の学寮の子たち)で見た人たちは
「めっちゃよかった!宮崎アニメの中で一番いい!」と一様に声を
それにお子さんと見に行かれた親御さんの感想は
「小学生の子どもにもちゃんと分かるようで、映画をみて涙ぐんで
私にはこちらのほうが驚きでした。
そうか若い人のほうがメッセージが伝わるのか...と。。。
三男の周辺の場合、ひとつは「ものづくり」を目指す子達だから、
FBに流れてくる感想も、ほんとうに十人十色で、おもしろいです
宮崎アニメの中でも最も万華鏡のように人それぞれ違うものをあの
合気道とは
「合気道とは」
合気道とは何なのかを、自分の言葉で書こうとすればするほど分からなくなる。
それはまだ私が公に向けて「合気道とはこうです」と、強く断定して言えるまで分かっているとは思えない、稽古をすればするほど、まだ到底、気づいていない気づけていないことが遥かに多いと感じるのが現実だからでしょう。
え?そんな人が稽古会を主宰してもよいの?と読者や入門を考えている方に不安を与えるつもりはないのです。
現時点で合気道に必要な「基礎」は伝えていけます。ただ、私自身、まだまだこれからの段階であることは自他共に認めるところであります。自分の伸び代は無制限無尽蔵にある、しかも、何年やっても、合気道は、やればやるほど、身体や心の遣い方、奥深い深遠なる淵を覗かせてくれます。毎回、稽古の瞬間瞬 間でそれを感じさせてくれる、これで出来た、これでゴールといっていいことは永遠に来ないであろう、それが私にとっての合気道です。
「学ぶ」ことに関して言えば、「自分はそれが出来ている、自分はそのことを充分に分かっている」と無邪気に断定し登録てしまうところが最も危ない、よくない「居着き」=武道がもっとも嫌う状態が生じ、そこから学ぶことが止まる、学び損ねてしまう陥穽におちいるものだと思います。
そういう意味で、稽古の現場は、常に基礎を尊び学び、基本の型の習得・修練と共に、仮定の上での新しい試み、実験や、前言撤回もありのプロセス、まさに「常に変化する」なまものを扱うような、流動的で変化に富んだ、生成的な場であります。
自分の今日までの合気道の道のりを振り返って正直に書いてみます。
合気道に入門したのは、合気道のなんたるかを本で読んだり見聞きしたりしてかなり調べこんで入門したわけではなく、入門を決めた当初は、武道にさしたる興味を持っていたわけでもありませんでした。(そんなユルイところからスタートしています。つまり、自分の足で道場に来れるのであれば、誰にでもできるものなのです!)
内田先生が現役で神戸女学院大学で教鞭をとっておられるときに(今は退官されて同大学の名誉教授です)、私は大学院の内田ゼミに社会人聴講生として 参加させて頂いておりました。毎回、大変有意義な演習で、学生さん達、社会人の方々、優秀な方々の発表によってゼミは成り立っておりました。
受講者の発表後、仏文学や現代思想を専門とする内田先生のコメントとそこから展開されるご講義で、ある時はメタファーとして、幾度となく出てくる 「合気道」のお話を伺う度に、なんだかわからない、前知識も何もないけれど、先生がそれほど熱く語られる合気道とは一体どんなものなのか、まず体験してみ ようと門戸を叩いた、最初はそんなゆるやかな興味とモチベーションではじめたのでした。
入門当初は右も左もワケがわからず、人と組み、やったことのない動作の連続、頭も身体もついてゆかない、うまくゆかなくて、とにかく毎回混乱し、落ち込んだり、凹んだりしました。
それでも「なにがなんだかわからないけど、やってみよう、続けてみよう!」と合気道の魅力に取り憑かれていきました。
入門当初は3人の男の子の子育て真っ最中(当時、小学生2人と中学生1人でした。今は高校生2、大学生1です^^)、週末は末っ子が入団している少 年野球お世話役などと重なり、稽古に参加出来ないブランク期間も長く、稽古の積み重ね感が薄いまま、道場と切れそうで切れない危うい期間を経て、たまにし か参加出来ない私に、内田先生のご指導をはじめ、同門の先輩方や多くの仲間のみなさんに助けられなんとか継続、気づけば入門して7年が経っていました。
もちろん家族の理解もあって続けられたことで、遠くに近くにご縁を頂く全ての皆様のお陰様をいただいて、ここまで来れたことを心から深く感謝しております。
では本題に戻ります。
合気道をはじめるに際して最もきっかけとなった内田先生のお言葉は、
合気道をやるとコミュニケーション能力が高くなる
合気道をするということは、宇宙の法則を自分の心身にインストールすることだ
このふたつの尽きたと思います。
私は、その頃(今もですが)整体ヨガ教室を地元で主宰し、たぶん現時点で振り返っても、もっとも在籍者が多く、そして3人の子育ての渦中であった忙しい時代でした。
一週間に7〜9コマのクラスや他に単発講座を行い、在籍者は150名近くいました(生徒数はリーマン・ショックを境に、そしてフェルデンクライス・メソッドとの出会い以降、レッスン・プログラムを斬新に変化させ、そのプロセスで徐々に半減しましたが)。
ヨガのよいところは、マイペースで自分のカラダの声を聴きながら取り組めることです。常に自分の心身を観察していくので「内観」する力が強くなると思います。
ヨガマット一枚あれば、相手がいなくてもできる、ある意味「自己完結」した世界です。それがいい、わるいというのではなく、もちろんヨガはヨガですばらしいし、合気道の準備体操の中でも、ヨガの呼吸法やアーサナ(ヨガの対位法)がごく自然に取り入れられているほどヨガはすばらしいものだといえます。
けれど合気道がそれらとはあきらかに違うのは、合気道は相手があってこそ成立する世界、武道、稽古、これが私には非常に新鮮な世界観と修業をもたらしたのでした。
ヨガは内観する力を高め、アーサナや精神的修養によって、生きる力を高めていきますが、「ヨガを一人で行っていれば」、別の言い方をすれば「自意識」や「我」も逆に強くなる傾向も出てくるかもしれません。
(もちろん自分の修業状態を常に観ておられる、ヨガの精神的なところをきちんと教える指導者に師事していればそれは全く避けられます)。
けれど現代におけるヨガは多くはスポーツクラブや地域の教室で限られた時間内レッスンでの身体調整にとどまざるえません。
合気道の稽古の現場は、常に相手があって成立する世界なので、我が強ければ強いほど、それは「自分の弱さ」「弱点」「欠点」となってダイレクトに跳ね返ってくるような面白さがあります。
もちろんそれゆえに厳しい世界だと思います。
入門して合気道が好きで好きでたまらない、と、ストレートにスムーズにめきめき上達されていく方々をたくさんみてきましたが、自分などはおおよそその真逆をゆくタイプでした。
合気道の稽古に行くたびに落ち込んだのは、まず、私の場合、見たくない自分をしっかり見つめなくてはならない所から始まったからです。
他の同門の方々がスムーズに先生の見本演武を見て動かれる中、自分だけがすぐに手順を理解出来ないと、焦り、そのくせ、自意識とプライドだけは高 く、早く習得したいとはやる気持ちが焦りに繋がる悪循環、今振り返ってみると、私は自分に対してせっかちに何かを求めていたのではないかということです。
かなしい言い方をすると常に自分を否定し、自分ではない何かになろうとしていたといいますか...。
それともうひとつ言えることは、普段は教室業をやってますから、ふだんの生活は、仕事の現場では周囲の方々に「先生」と呼ばれ、 家では「3人の母」(こわいかあちゃん)であり、「奥さん」(恐妻!?)であります。まぁ内でも外でも、どこへ行っても「かかあ殿下」みたいな状況でした ので、へし折られるべき「鼻」を持っていたかもしれません。
とにかく入門当初は、見たくない、居るとは思いたくなかったヘタレな自分像というものにまざまざと「相手と組むことを通して」出会わされました。
試合をしない、勝敗をつけない、優劣を競わない、武道の中でも異色の存在、それが合気道。この独特の世界の中で、決して好み望んだ自分像ではない、もっというと、こんなはずではなかった、予期せぬ、歓迎し難い自分との出会いが、合気道入門によって果たされたのでした。
相手と組むことを通して、自分を客観的に知る(なかなか辛い)作業だったと思います。
入門当初を振り返って、楽しいというよりむしろ辛かったことの方が多かったかもしれない?のに、なぜ続いたのか、ここが味噌です。
しかも、この飽きやすく冷めやすい武道未経験者の私が、齢(よわい)四十を過ぎての手習い、いきなりパワフルな若い男女の方々の中に入って合気道修 業は想像以上にハードルが高すぎました。武道にはつきものの怪我もしましたし。それでも熱しやすく冷めやすい飽きっぽい私がヨガの他にも珍しく長続きした のが「合気道」、やはり、これは合気道の「何か」が私を捉えて離さなかったからだと思います。
合気道の稽古を通して御指導中の先生の珠玉の言葉が心身の動きを通して心と脳に刻印されてゆきます。
思いつくまま書いてみましょう。
「自分が場の主宰者になること」
「自分が今、此所にいることは前から決まっていたと、全て肯定し、強く断定する。」
「稽古は “透明な心” で取り組むこと」
「相手を嫌っていけない、相手を痛めつけるのではない」
「相手と正中線を合わせる」
「間のとり方、間合い」
「最適動線を探す」
「道場は稽古の場、道場の外が本番。
合気道の稽古で学んだことを活かすのは、人生という本番である」
「ヒンジ運動をしない」
「重心移動、骨盤から体幹、そして腕、指先へ、力を伝えてゆく」
「筋肉を固めて使わない、強い収縮の筋力をもって行うのではない、合気道の稽古をすればするほど、(余分な)筋肉が落ちてきたら本物」
「余分な力を抜くということは、脱力、腑抜けになることではない」
「相手と同化する=合気する、同期する」
「相手と同化して技をかける」
(※ 相手 “を” 同化して技をかける、かな...?と現在、模索中です)
「身体を細かく割る」
「呼吸力で技をかける」
「序・破・急」
「“破→急”で瞑想の境地に入る」
「足踏み 目付 胴造り 足捌き 手捌き」
上記の言葉は身体操作の指導でありながら、結局は人としての生き方を合気道という稽古の現場で学ばせて頂いていると思います。実際、内田先生もご自身のブログでこのように記されています。
「習い事のすばらしいところは、稽古で失敗しても、それで職を失ったり、会社に迷惑をかけたり、人生に大きな禍根を与えないことである。つまり伸び やかに 安全に失敗をし学ぶことが出来る場であり、そこでの経験を自分の人生や本業に活かすことが出来る、それが習い事・稽古事のすばらしいところである。」ワタ シの意訳ですが、そのようなことがもっと簡潔にすっきりと書かれています。
是非、お読み下さい。
合気道は楽しいです。
休まず間をあけず続ければ続けるほど楽しくなってきます。
人と組むという身体感覚を通して、しかも「勝敗を競わず」に、相手の身体から送られてくる微細な情報をキャッチして修業する、その精妙なプロセスは、ある種の「学びと救い」、本人が予想だにしなかった「大きな気づき」をもたらすと言って過言ではありません。
私はこの合気道修業中に、人生の中で大変辛い出来事を体験しました。自他共に破壊しかねない、心身がとても危険な水域に入っていったことがあります。その頃、私的な事情で稽古にもなかなか通えず、「生きる力」も落ちてましたので、ほんとうに辞めることまで考えました。
そのとき、内田先生が一言「とにかく、まず一度、お稽古に顔を出しなさい。一度投げられると、ふっと何かが切り替わりますから」とメールをくださったことを覚えています。
師匠から頂いた言葉です、即、素直に従いました。
とにかく何も考えずにまずお稽古に参加してみよう、それから決めよう、と。
長らく離れていたので、自分の中で敷居が高くなってましたが、かなりひさしぶりに稽古に参加させていただきました。
それからです、危険な状況から、生きる力と知恵が徐々に回復していったのは...。
もちろん時間はかかりましたが...。
やはり家族と友人、そして生業である仕事、もうひとつの家族といえる自分の整体ヨガ教室に通う方々の熱心さ、そして、合気道の師匠とその同門の方たちとの合気道修業を通して救われたといって過言はないです。
つい自分の話になり申し訳ないです。
合気道をはじめてみませんか?
最初は難しく考えず、汗をたっぷりかきたいから、痩せたいから、袴姿になってみたいから、ケンカに強くなりたいから、護身術を身につけたいから、仲間が欲しい、動機はなんでも構いません。
けれど一度フタを開けたら、あなたが予想しなかった面白い世界が待っています。
そうそう、もうひとつ、師匠の印象深い言葉を記して締めましょう。
「合気道には、入り口はあっても、出口はない。」
ビバ!合気道!合気Do!
いっしょに合気道をはじめてみませんか!?
あなたの入門をお待ちしております!
※合気道開祖の植芝盛平大先生のこと、合気道の成り立ち、そして私が所属する多田塾の文脈を知って頂くためにも、私の師匠の書かれた「合気道とは」を是非お読みください。
「合気道とは」考え中。
合気道稽古会「澄月会」のHP作成が佳境をむかえつつある。
HPの「合気道とは」の頁なのですが、テキストがなかなか進まないのであります。
(もちろん私自身の問題デス)
ここが最もHPの要となるところ。
私のHPを見て、合気道をやってみようかな、と思っていただけるような内容であらねばならない。と、つい「〜ねばならない」と考えすぎるから構えすぎて書けなくなるのかもしれないのですが...。
合気道の昇級昇段審査と同じで、普段の稽古の時以上の実力なんて審査時に出せるものではなく(普段通りにできたら上等)、自分が主宰する稽古会でも自分がどんな稽古をしているのか、いわずもがなであります。
それにしても、合気道って聞いたことがあるけど、どんな事をするのか実は知らない、という方が世の大半であると思います。
我が師匠、内田樹先生がすばらしく簡潔に必要なことを多田塾甲南合気会のHPに「合気道とは」を記されておられます。そこで、自分のHPの「合気道とは」の説明にリンクを貼らせて頂くことにしました。
けれど、当然それとは別に、澄月会の主宰者として、拙いながらも自分の言葉で、今の自分が感じていること、学んでいる「合気道とは」を伝えていくということが大切ですよね。それが自分が主宰する稽古会の今後の在り方であり要となってくるのですから...。
しかし、自分の言葉で書こうとすればするほど肩に力が入って書けない。
等身大の自分以上のことを書こうしているのかもしれない。
だからフリーズ....
ええい、ままよ。
とにかくまず自分が普段のお稽古の際に気をつけていることを書いてみることにしました。
それがありのままの私であり、「澄月会」であり、現時点で目指している稽古内容に違いないのですから...。では、HP用テクスト、いざ!
合気道 おすすめ本
本日は合気道のことをよく知っていただくために、その助けとなる本をご紹介したいと思います。
■月刊「秘伝」2011年1月号
私が所属する多田塾甲南合気会の「多田塾」とは、多田宏先生が主宰される合気道の直弟子による道場であることを指します。
つまり私の師匠・内田樹先生のそのまた師匠が多田宏師範です。
多田宏先生(九段)は、合気道の開祖である植芝盛平から合気道を、日本で最初にヨガを広めた第一人者中村天風から呼吸法や心身統一など、直接師事し薫陶を受けられた稀少な指導者です。
月刊「秘伝」という武道武術関連の定期刊行誌の
「秘伝」2011年1月号の特集は「合気道家 多田宏の教え」です。
多田宏先生が合気道を通して伝えようとされていることが伝わってきます。
カラー頁で「呼吸操練」など呼吸法の技術の紹介もあり、また我が師匠・内田樹先生が多田先生を語る頁もあります。
こちらは内田樹先生の著書です
■先生はえらい
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/01
- メディア: 新書
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私の道場に入門される方には必読の書として手渡したい一冊です。
現代人の多くが忘れ、見落としてしまっている「学ぶことの本質」が描かれています。
「先生はえらい」の「えらい」は、「偉い」のことでしょうか。
それとも「しんどい」のエライでしょうか。
またはどちらも含まれているのでしょうか。
「わたしのことを敬え」
「教えるって大変なんだぞ」
どうせそんなことが書かれているんだろう、読みたくねぇと思った方、
是非、おすすめです。
読むと目から鱗がぼろぼろと落ちますよ。
学ぶってこういうとだったんだ!が〜〜ん!...と。
■修業論
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/07/17
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内田先生、渾身の書き下ろし近著です!
やはりこれも合気道修業者、必読の書!
■運命を拓く
- 作者: 中村天風
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/06/12
- メディア: 文庫
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中村天風先生の御本
「力の誦句」
私は、力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、
否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
そうだ!
強い、強い、力の結晶だ。
などなど、毎日、ひとつ、声に出して読む、
それだけで運命が変わることでしょう!
それほど力強い、積極的な「誦句」が随所にちりばめられています。
多田宏先生も合気道の体術のお稽古に入る前の呼吸法で、
中村天風先生の「今日一日の誓い」を唱えておられます。
「今日一日の誓い」
今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、
正直、親切、愉快に、
力と勇気と信念とをもって
自己の人生に対する責務を果たし
恒に平和と愛を失わざる
誠の人間として活きることを誓います。
■合気道とラグビーを貫くもの
合気道とラグビーを貫くもの 次世代の身体論 (朝日新書 64)
- 作者: 内田樹,平尾剛
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2007/09/13
- メディア: 新書
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内田先生と日本代表のラグビー選手・平尾剛氏のお二人が
身体論を語り尽くした対談です。
組織論、リーダーシップ論としても読めます。
私の友人はこれを読んで感銘を受けて合気道をはじめました。
■多田塾主宰・多田宏師範の合気道技法全集 DVD 第一巻〜第三巻
これは先輩からいただいた言なのですが、DVDは確かにいろんな意味で確認ができるし、師範の動きが動画記録として残されているのは大変有り難いことである、と同時に、合気道の稽古の現場は、常に生き物と同じで変化し続ける、とのことでした。
あのときはこういう課題やテーマで教えられたことも、今、現在はそこからもっと進化して、「同じ型」でも、違った視点やテーマで師範から弟子に教授されるもの。
なので稽古中、修業中の方にとったら、DVDを観ることの良さと、それを全てとしてしまわない視座の、両方を持ち合わせて拝見するバランス感覚が大事なのだなと思いました。
それにしても、合気道とはどんな感じのものなのか、
また多田塾のことを知りたい方にも、とてもすばらしいDVDです。
特に第一巻に納められている「呼吸法」や「今日一日の誓い」などは、
合気道をしない、知らない方でも、
毎日されたら、ずいぶん、一日の過ごし方や、
人生が変わってくるのではないかと思います。
合気道の稽古会・澄月会へようこそ
みなさま、はじめまして。
私は、滋賀県東近江市で合気道の稽古会・澄月会(ちょうげつかい)を主宰する福井千珠子と申します。
2006年 平成18年の2月4日に内田樹師範が主宰する多田塾甲南合気会(芦屋体育館武道場)に入門し、合気道をはじめました。
その5年後、内田樹先生は、2011年平成23年11月に急増する門下生のために自宅兼武道場である武道と哲学の私塾「凱風館」を神戸市東灘区の住吉神社近くに竣工されました。
(凱風館 神戸市東灘区)
今まで以上に素晴らしい合気道修業の環境を与えて頂き、わたくしは、晴れて
2013年 平成25年3月に昇段審査に挑み、公益財団法人合気会合気道本部道場より4月に初段としてお免状を頂き、長年の夢であった黒帯の仲間入りをさせていただきました。
その後、師範からお許しを得て、じぶんの地元である滋賀県東近江市布引体育館武道場にて、初心者を対象にした合気道の稽古会を同年4月12日(金)から始めました。
内田先生に稽古会の名前を澄月会(ちょうげつかい)と命名いただきました。
まだまだ初段になったばかりで自分自身がこれからが、ほんとうの合気道修業のスタートだと感じると共に、未熟ながらも師範や同門の先輩方、仲間のみなさまのご理解と応援を頂くことに深く感謝し、人に指導させて頂くことを通して、よりよく稽古と修業を積み重ねていきたいと思っております。
また、初段になったばかりの者が稽古会を始めるに際して
たまたま偶然なのですが(先生はこの文章を私が稽古会をしてもよろしいでしょうかとお許しの申請をする前に書かれていました)先生がミシマ社のミシマガジンにて連載中の第一回凱風館日乗に書き記されているものがあります。
こちらもお読み頂ければ幸いです。
第1回 凱風館日乗(2013/3/24、25~26、29、30~4/1)|凱風館日乗|みんなのミシマガジン
みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
(凱風館にて内田樹師範と)
(読売新聞 しが県民情報 2013/07/16(火)掲載)